NST便り-第29報-

ラジカセ

昔,大学の医局にいた若い頃,新しい教授が赴任された.

世界レベルの巧みな手術手技を持った先生である.

手術室に巨大な「ラジカセ」を持ってきて,度肝を抜き,「これがないとリラックスできまへんからな」と関西弁が新鮮だった.

カセットテープで「ロッド ステュワート」が がぁーん と来て,さらに度肝を抜かれた.

誰も味方のいない一匹狼で乗り込んできて,自分のやり方を始めることになって,大いに緊張していたのだろう.

もちろんロッド ステュワートはしばらく続いた.

自分も術者になってリラックスのために音楽は必要だった.

ラジカセでCDや,400チャンネルの有線放送設備があった.

主に,はやりの歌謡曲を聴きながらやったが,知っている曲はつい謡ってしまうので,その後は有線のB40:すなわちモーツァルトにした.もちろん知っている部分はうたってしまうが,歌詞がないから,みな ラ ラ ラ ですむ.

家の近くにこじんまりとしたパン屋があった.とうさん一人で切り盛りしていた.一人なのに何十種類もパンがあって,きっと毎朝3時に起きてパンを焼いて,夕方また翌朝の仕込みをしていたのだろう.

いつも,モーツァルトがかかっていた.「こうしないとおいしいパンが出来ないんだ」と言っていた.25枚のCDがまとめて入るマルチ CD チェンジャーというやつだった.昨日は「あの曲」,今日は「この曲」と,当てるのも楽しみだった.

カナダにいた時,実験がうまくいかず,言葉も通じなくて孤立感は最大だった.隣の病理のラボは1日中ラジオがかかっていた.当時の古いIBMのPCでは音楽再生は夢の又夢だった.

しばらくして,手術室の看護師から手紙をもらった.「早く帰ってきて下さい.そしてまた,みぽりんをかけながら一緒に手術しましょう」とあったので,励まされて,大いに涙した.

いい音楽がかかっていると食欲も増すだろう.病室でもロッド ステュワートやモーツァルトが常に流れていると,皆の食餌摂取量がアップしそうだ.

全館同じ曲というわけにはいかないが,食事の時くらいはテレビなどに注意を奪われずに,耳から脳に気持ちよく流れる音楽があってもいい.

黒川泰任